研究活動

1)平安文化ならびに平安京の調査・研究


1957年(昭和32)は,当協会にとって画期的な躍進の年であった。機関誌「古代学」に加えて,8月には「古代文化」(月刊)の創刊があり,そして11〜12月には,勧学院址の発掘調査を嚆矢とする平安京研究の開始があった。1959(昭和34)年から毎年実施した平安京大内裏の中心をなす朝堂院の発掘調査は,日々にその遺跡が破壊されつつある平安京の文献学的かつ考古学的研究に先鞭を付け,この方面で先駆者的な役割を演じた。特記されるのは,1965年(昭和40)11月に紫式部の邸宅跡(京都市上京区北辺町)を明らかにし,そこに位置する廬山寺の境内に顕彰碑を建てたことであろう。

平安博物館を開設した1967年(昭和42)から当協会の活動は,多数の発掘調査を実施すると共に各種の研究書や報告書を公にし,その学術的業績は学界の驚嘆するところとなった。1977年刊行の大冊平安京出土の瓦を集大成した『平安京古瓦図録』(雄山閣)はその代表的なものである。

1990年(平成2)には,平安京域ばかりでなく平安時代における山岳寺院の研究の一環として,京都市東山の大文字山に連なる如意岳山頂にある如意寺址の発掘調査に着手し,その後1995年まで調査は継続された。そして2007年(平成19)の本年,再出発した当協会の最初の研究成果として,ようやく待望の報告書の刊行を果たすことができた(「古代学協会研究報告」第1輯)。山岳仏教研究に大きな貢献が期待される。

1994年には,『平安京出土土器の研究』(「古代學研究所研究報告」第4輯)が刊行された。これは平安京の遺跡を調査する上で,欠くべからざる年代測定の物差しを提供したものであり,平安京の考古学的研究において画期的な業績であった。

長岡京左京東院塔跡正殿地区全景1997 年度に実施した長岡京左京六条二坊の発掘調査では,下層から環濠集落が姿を現し,これが弥生時代前期の雲宮遺跡の主要部であることが判明した。さらに,1999年に実施した京都市南区久世殿城町における発掘が意外な成果をもたらした。これは桓武天皇が平安遷都を目前にして長岡京北東角に設けられた宮 殿の跡であり,主殿は幅約80cmの円柱跡74基を用いた紫宸殿に類する建物であった。「東院」,「延暦十二年」などと墨書きされた土器や木簡が多数出土し,桓武天皇が皇居となし,天下の政治を統べられた,国の心臓部にあたる巨大な建物であることか判明した。各紙が一面トップに取り上げ大々的な報道となった。794年(延暦13)10月に至って桓武天皇は,「東院」と称するこの建物を廃止し,平安京にこれを移された(「古代學研究所研究報告」第7輯)。

2000年(平成12)実施の平安京右京六条三坊七・八・九・十町(島津製作所五条工場跡地)の発掘調査は約20,400平米の広大な規模となった。その結果,大路と小路の交差地点の構造か確認され,付近の川跡では馬(在来種)や牛などの獣骨が多数発見され,雨乞いの儀式のために生贅となったものではないかとも考えられている。また木簡,木印など多量の木製品も出土した。

さらに協会は,文献史料の宝庫として著名な仁和寺の所蔵文書,典籍類の研究を開始し,1994年(平成6)以来,夏・冬季を除く毎月定期的に同寺において調査を続け,その成果の一部は「仁和寺研究」(年誌)として刊行することとなった。

2)始原文化の調査・研究


1962年(昭和37)からは考古学研究の分野では日本文化の源流を究明するため,多数の専門学者を結集して大分県の丹生遺跡群の発掘調査を6ヶ年に亘って主催し,日本の岩宿(旧石器)文化の研究に多大な貢献をなした。

1971 年(昭和46)青森県石亀遺跡,茨城県福田貝塚,1972年大分県宮地前遺跡,1973年舞鶴市桑飼下遺跡,1977年磐田市寺谷遺跡,1976年福知山市武者ヶ谷遺跡,1979年富山県野沢遺跡,1982年静岡県広野北遺跡など縄文時代の重要遺跡,岩宿時代の大規模遺跡を,全国各地にわたり相次いで調査し,日本の基層文化と列島史の起源の解明に貴重な問題提起と貢献をなし,学史に残る大きな成果をあげた。

3)海外古典文化の調査・研究


オソルコン?V世奉献碑エジプトアコリス遺跡出土 1981年(昭和56)からは,エジプト中部のアコリス遺跡の発掘調査を開始し,1992年(平成4)に至るまでの12年間,毎年発掘調査を続けてきた。これはエジプトにおいて研究が遅れている同国のローマ時代史を研究する目的をもつものであるが,一方では日本の対外文化事業の一環として高く評価された。出土遺物の一部は現在カイロのエジプト考古学博物館の一隅に展示されている。これらの発見品は,2010年,遺跡近くのミニア市に建設が予定されているアクナテン博物館の展示資料となるものであって,エジプト政府当局は,当協会の発掘調査を大いに多とし,感謝している。

ポンペイ遺跡発見の第9塔の南出入口一 方で,1989年(平成元)には古代都市の形成過程や交通,水道の機能を究明するためにイタリアのポンペイ遺跡において地上調査を開始した。後者は高度技術を駆使した綿密な調査であって,それまで放置されていたポンペイ遺跡の基本問題の解明に大きく寄与することとなり,この調査を通じてイタリア共和国,ひいてはEC諸国との友好の増進に努めた。

第9塔北側発見の奴隷男性2体の人骨その後,4年間の地表調査の実績が評価され,1993年度(平成5)からイタリア文化財省の許可を得て,カプア門の検出を求めていよいよ5ヶ年計画による本格的な発掘調査を開始した。1993年度,94年度の発掘調査は円滑に進み数々の成果を挙げたが,さらに諸企業の支援によって,ポンペイ市内に,1995年(平成7)9月1日をもって西方古典文化研究所(ポンペイ研究所)を開設した。

発掘調査は,2000年1月をもってひとまず終了した。この調査では,19世紀の初頭から伝えられてきたカプア門の存在は全く確認されず,代わって塔屋が検出された。

その後,2002年に至って補足的発掘調査を実施したが,やはり門の存在は認められなかった。他方この調査中,思いもよらず男性二体の人骨が発見され,しかもその遺骸には鉄製の足枷をつけていたことから奴隷と判明,ヨーロッパはもとより世界各地で話題となった。

現在は出土した人骨の研究を進めると共に,英伊日語による正式な調査報告書の完成に向けて鋭意努力中である。

 

このページのトップへ△