研究事業
共同研究
(順不同 所属は当時、敬称略)
日本の後宮の研究
期間:令和3年~令和6年
共同研究者:岡島陽子(古代学協会プロジェクト研究員、京都大学文学研究科)、吉川真司(古代学協会参与、京都大学)、山田邦和(古代学協会理事、同志社女子大学)
内容:角田文衞著『日本の後宮』(昭和48年、学燈社)の再検証および、同書の復刊。
近畿地方初期農耕集落の研究
期間:平成24(2021)年~ 平成25年科学研究費助成事業基盤研究(B)へ移行
共同研究者:森岡秀人(座長 芦屋市教育委員会)、桑原久男(天理大学教授)、寺前直人(駒澤大学准教授)、伊藤淳史(:京都大学文化財総合研究センター)、若林邦彦(同志社大学准教授)、豆谷和之(奈良県田原本町教育委員会)、國下多美樹(龍谷大学特任教授)、上峯篤史(京都大学大学院文学研究科)、山本 亮(京都大学大学院文学研究科)、岩崎 誠(長岡京市教育委員会)、桐山秀穂(野村美術館)、(順不同 所属は当時、敬称略)
内容:平成9年に古代学協会が行った京都府長岡京市雲ノ宮遺跡の発掘調査の報告書の刊行を目的とし、近畿地方における初期農耕集落の実態を解明する。
成果:『古代学協会研究報告 第10輯 雲宮遺跡・長岡京左京六条二坊跡発掘調査報告書』2013年8月
『古代学協会研究報告 第13輯 雲宮遺跡発掘調査報告書(補遺編)』2017年3月
石作・小塩窯の研究
期間:平成27(2015年度) 平成29年科学研究費助成事業基盤研究(C)へ移行
共同研究者:市川 創(古代学協会客員研究員、(財)大阪文化財協会)、石井清司(古代学協会客員研究員、(財)京都府埋蔵文化財調査研究センター)、植山 茂(古代学協会客員研究員、京都文化博物館)、網 伸也(近畿大学)、高橋照彦(大阪大学)、白石 純(岡山理科大学)
内容:昭和54年に、古代学協会が行った、京都市西京区の石作窯跡、小塩窯跡の発掘調査
において、平安京近郊における緑釉陶器生産の実態を解明する重要な成果を上げたが、報告書が刊行されておらず、改めて同窯跡の資料を整理して報告書を作成し、さらにはそれを中核として平安京にかかわる緑釉窯業製品の生産を多角的に解明する。
成果:『古代学協会研究報告第16輯 石作窯・小塩窯発掘調査報告―平安期緑釉陶器・緑釉瓦生産の多分野協働型研究―』2020年6月
福井県二上山(糞置庄)遺跡の研究
期間:平成25(2013)年~平成27(2015)年
共同研究者:山本 亮(古代学協会プロジェクト研究員、京都大学大学院文学研究科)、竹内 亮(古代学協会プロジェクト研究員、関西大学非常勤講師)
内容:昭和27年から数回にわたり、古代学協会が調査した、糞置・二上山遺跡の考古学的、文献学的研究を通じて、報告書刊行をめざす。
成果:『古代学協会研究報告 第11輯 糞置荘・二上遺跡の調査研究』2015年3月
仁明朝史の研究
共同研究者:網 伸也((財)京都市埋蔵文化財研究所)、佐藤 泰弘(甲南大学)、高橋 照彦(大阪大学)、西本 昌弘(関西大学)、根立 研介(京都大学)、菱田 哲郎(京都府立大学)、藤本 孝一(龍谷大学客員教授)、堀 裕(大阪樟蔭女子大学)、山内 晋次(大阪大学)、山田 邦和(同志社女子大学)、山中 章(三重大学)、吉川 真司(京都大学)
内容:古代学協会はこれまで、平安時代をテーマとした『桓武朝の諸問題』(1962年)、『摂関時代史の研究』(1965年)、『延喜天暦時代の研究』(1969年)、『後期摂関時代史の研究』 > (1990年)、『後白河院―動乱期の天皇―』(1993年)といった論文集を編集・刊行した。それらはいずれもが平安時代研究の最高水準の成果として高い評価を得、学界に裨益するところはまことに大なるものがあった。「仁明朝史の研究」は、こうした事業の続編として、平安時代前期の研究に楔を打ち込もうとするものである。
仁明天皇(在位八三三~八五八)の時代は、その主要な年号を採って「承和時代」とも呼ばれる。この時期には、平安京が安定するととも に、藤原良房の権力が確立に向かい、「初期摂関政治」が姿を現していった。さらに、和歌、楽舞、仏教儀式などが新たな装いを見せ、「国風文化」への地均しが行われた時代でもあった。この共同研究では、平安時代を専攻する気鋭の研究者を集結し、後の王朝文化の先駆けをなす 重要な転換の時代である仁明朝の歴史的意義を解明する。
成果:『仁明朝の歴史』2011年2月、思文閣出版
個別研究
仁和寺文書調査資料のデジタル化による平安時代史料の研究
期間:令和3年~
担当:古藤真平(古代学協会研究員)
紀伝道課試関係記事の編年的集成
期間:平成23(2011)年~平成26(2014)年
担当:古藤真平(古代学協会客員研究員)
成果:『古代学協会研究報告 第12輯 紀伝道研究史料集 ―文武~光孝朝ー』
礫群(石蒸し調理施設)からみた岩宿時代の集落の研究
期間:平成23年~ 平成24年~科学研究費事業事業費基盤研究(C)へ移行
担当:鈴木忠司(古代学協会研究員)
成果:『古代学協会研究報告 第9輯 岩宿時代集落と食の理解へ向けての基礎的研究 -石蒸し調理実験1999~2011-』2012年11月
日本列島における初期農耕文化の荷担者の研究 ─その伝来と拡散を担った人─
期間:平成23(2011)年~平成26(2014)年
担当:下條信行(古代学協会評議員)
成果:『列島初期稲作の担い手は誰か』2014年、すいれん舎
研究の歩み
1)平安文化ならびに平安京の調査・研究
1957年(昭和32)は、当協会にとって画期的な躍進の年であった。
機関誌「古代学」に加えて、8月には「古代文化」(月刊)の創刊があり、そして11~12月には、勧学院址の発掘調査を嚆矢とする平安京研究の開始があった。
1959(昭和34)年から毎年実施した平安京大内裏の中心をなす朝堂院の発掘調査は、日々にその遺跡が破壊されつつある平安京の文献学的かつ考古学的研究に先鞭を付け、この方面で先駆者的な役割を演じた。
特記されるのは、1965年(昭和40)11月に紫式部の邸宅跡(京都市上京区北辺町)を明らかにし、そこに位置する廬山寺の境内に顕彰碑を建てたことであろう。
平安博物館を開設した1967年(昭和42)から当協会の活動は、多数の発掘調査を実施すると共に各種の研究書や報告書を公にし、その学術的業績は学界の驚嘆するところとなった。
1977年刊行の大冊平安京出土の瓦を集大成した『平安京古瓦図録』(雄山閣)はその代表的なものである。
1990年(平成2)には、平安京域ばかりでなく平安時代における山岳寺院の研究の一環として、京都市東山の大文字山に連なる如意岳山頂にある如意寺址の発掘調査に着手し、その後1995年まで調査は継続された。
そして2007年(平成19)の本年、再出発した当協会の最初の研究成果として、ようやく待望の報告書の刊行を果たすことができた(「古代学協会研究報告」第1輯)。山岳仏教研究に大きな貢献が期待される。
1994年には、『平安京出土土器の研究』(「古代學研究所研究報告」第4輯)が刊行された。
これは平安京の遺跡を調査する上で、欠くべからざる年代測定の物差しを提供したものであり、平安京の考古学的研究において画期的な業績であった。
1997 年度に実施した長岡京左京六条二坊の発掘調査では、下層から環濠集落が姿を現し、これが弥生時代前期の雲宮遺跡の主要部であることが判明した。
さらに、1999年に実施した京都市南区久世殿城町における発掘が意外な成果をもたらした。
これは桓武天皇が平安遷都を目前にして長岡京北東角に設けられた宮殿の跡であり、主殿は幅約80cmの円柱跡74基を用いた紫宸殿に類する建物であった。
「東院」、「延暦十二年」などと墨書きされた土器や木簡が多数出土し、桓武天皇が皇居となし、天下の政治を統べられた、国の心臓部にあたる巨大な建物であることか判明した。
各紙が一面トップに取り上げ大々的な報道となった。794年(延暦13)10月に至って桓武天皇は、「東院」と称するこの建物を廃止し、平安京にこれを移された(「古代學研究所研究報告」第7輯)。
2000年(平成12)実施の平安京右京六条三坊七・八・九・十町(島津製作所五条工場跡地)の発掘調査は約20,400平米の広大な規模となった。
その結果、大路と小路の交差地点の構造か確認され、付近の川跡では馬(在来種)や牛などの獣骨が多数発見され、雨乞いの儀式のために生贅となったものではないかとも考えられている。
また木簡、木印など多量の木製品も出土した。
さらに協会は、文献史料の宝庫として著名な仁和寺の所蔵文書、典籍類の研究を開始し、1994年(平成6)以来、夏・冬季を除く毎月定期的に同寺において調査を続け、その成果の一部は「仁和寺研究」(年誌)として刊行することとなった。
2)始原文化の調査・研究
1962年(昭和37)からは考古学研究の分野では日本文化の源流を究明するため、多数の専門学者を結集して大分県の丹生遺跡群の発掘調査を6ヶ年に亘って主催し、日本の岩宿(旧石器)文化の研究に多大な貢献をなした。
1971 年(昭和46)青森県石亀遺跡、茨城県福田貝塚、1972年大分県宮地前遺跡、1973年舞鶴市桑飼下遺跡、1977年磐田市寺谷遺跡、1976年福知山市武者ヶ谷遺跡、1979年富山県野沢遺跡、1982年静岡県広野北遺跡など縄文時代の重要遺跡、岩宿時代の大規模遺跡を、全国各地にわたり相次いで調査し、日本の基層文化と列島史の起源の解明に貴重な問題提起と貢献をなし、学史に残る大きな成果をあげた。
3)海外古典文化の調査・研究
1981年(昭和56)からは、エジプト中部のアコリス遺跡の発掘調査を開始し、1992年(平成4)に至るまでの12年間,毎年発掘調査を続けてきた。
これはエジプトにおいて研究が遅れている同国のローマ時代史を研究する目的をもつものであるが、一方では日本の対外文化事業の一環として高く評価された。
出土遺物の一部は現在カイロのエジプト考古学博物館の一隅に展示されている。
これらの発見品は、2010年、遺跡近くのミニア市に建設が予定されているアクナテン博物館の展示資料となるものであって、エジプト政府当局は、当協会の発掘調査を大いに多とし,感謝している。
一方で、1989年(平成元)には古代都市の形成過程や交通、水道の機能を究明するためにイタリアのポンペイ遺跡において地上調査を開始した。
後者は高度技術を駆使した綿密な調査であって、それまで放置されていたポンペイ遺跡の基本問題の解明に大きく寄与することとなり、この調査を通じてイタリア共和国、ひいてはEC諸国との友好の増進に努めた。
その後、4年間の地表調査の実績が評価され、1993年度(平成5)からイタリア文化財省の許可を得て、カプア門の検出を求めていよいよ5ヶ年計画による本格的な発掘調査を開始した。
1993年度、94年度の発掘調査は円滑に進み数々の成果を挙げたが、さらに諸企業の支援によって、ポンペイ市内に,1995年(平成7)9月1日をもって西方古典文化研究所(ポンペイ研究所)を開設した。
発掘調査は、2000年1月をもってひとまず終了した。
この調査では、19世紀の初頭から伝えられてきたカプア門の存在は全く確認されず、代わって塔屋が検出された。
その後、2002年に至って補足的発掘調査を実施したが、やはり門の存在は認められなかった。他方この調査中、思いもよらず男性二体の人骨が発見され、しかもその遺骸には鉄製の足枷をつけていたことから奴隷と判明、ヨーロッパはもとより世界各地で話題となった。
現在は出土した人骨の研究を進めると共に、英伊日語による正式な調査報告書の完成に向けて鋭意努力中である。