公益財団法人古代学協会

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顕彰事業

1)史跡顕彰事業

当協会では、昭和39年より、平安遷都から鎌倉時代にいたる京都市内の史跡、すなわち日本文化を彩る人物や宮殿、邸宅ゆかりの地に駒札、歌碑、銘板などを建て、その顕彰活動にもつとめてきた。
国内外から京都を訪れる多くの歴史、文学愛好家に、日本の古典文化の舞台を巡り、古都をよりよく理解していただけるよう、普及啓発活動の一環としておこなってきたものである。
なお建立場所については、移転したもの、ビル等名称が変わったものがある   <顕彰碑地図>

No 建立日 顕彰事業内容 建立場所 写真
1 昭和39.10.3 東五條第跡説明板設置に協力 京都市下西入ル丈四条通高倉町82番地(ルイ・ヴィトン 京都大丸店正面西壁面:当時〔株〕大和銀行京都支店) 東五条第跡
平安時代前期,左大臣藤原冬嗣の邸宅と推定され,女の順子が仁明天皇の女御として入内する際に里第として授けられたものと考えられる。摂関家の藤原良房,基経,忠平の所有を経て,忠平の妹・穏子(醍醐天皇の中宮)の里第となった。
2 昭和40.11.29 紫式部邸宅跡顕彰碑建立 京都市上京区寺町通北之辺町上ル397 (廬山寺境内内庭) 紫式部邸宅跡
もと紫式部の曾祖父・藤原兼輔の邸宅。鴨川の西岸に位置したため堤第と呼ばれていたことから彼自身堤中納言と称された。子息の頼とその弟で紫式部の父為時一族がこれを伝領したため,式部はここで育ち,結婚生活を送り,宮仕え後も里第としており,『源氏物語』はこの家で執筆されたと考えられる。
3 昭和41.2 三條東殿跡顕彰碑建立と説明板設貴に協力 京都市中京区烏丸通姉小路下ル場之町586-2(NTT都市開発〔株〕「新風館」西北角・旧日本電信電話公社京都都市管理部用地) 三條東殿跡
古くは白河法皇の院御所であり,のち孫の鳥羽上皇に譲られ,更に皇子の後白河天皇に伝領された。下って平治の乱(1159)勃発の時,源義朝の焼打ちによって灰燼に帰したことはつとに有名である。昭和38年5月には当協会で発掘調査を実施した。
4 昭和47.2 在原業平邸跡標柱設置に協力 京都市中京区御地通高倉西入ル錦屋町525(吉忠〔株〕西北角) 業平邸跡
平安時代初期の代表的歌人で,六歌仙の一人として著名な近衛中将在原業平(825~880)の邸宅である。業平は,平城天皇(774~824)の皇子・阿保親王(792~842)の第五皇子で,生母は桓武天皇(737~806)皇女の伊都内親王である。恐らく母の伊都内親王の邸宅であったと思われる。業平は,2歳の時に臣籍に降った。多くの歌や『伊勢物語』に語られているように,二条妃・藤原高子(842~910)や斎宮・恬(やす)子内親王(?~913)との恋物語は余りにも有名である。
5 昭和49.4 平安京内裏内郭回廊跡顕彰碑建立と説明板設置に協力 京都市上京区下立売千本東入ル田中町467 平安京内裏内郭回廊跡
古代学協会による昭和44(1969),48年(1973)の発掘調査によって平安宮内裏西南部の築地内郭回廊の基礎をなす地覆石を据えた凝灰岩の基壇が検出された。この回廊は,保元の乱(1156)以後藤原信西(通憲,1106~1959)の意向によって再建されたもので,内裏の唯一の建物遺構として昭和54(1979)年に平安京の遺跡として初めて国の史跡に指定された。
6 昭和49.11.16 清少納言歌碑建立と説明板設置 京都市東山区泉桶寺山内町(泉涌寺境内「泉涌水屋形」前) 清少納言歌碑
清少納言が,晩年山荘を営み,隠棲していたと推定されるこの地に,彼女の代表的な歌の碑(揮毫は芸術院会員・日比野五鳳氏)を建立した。
「夜をこめて鳥のそら音はかるともよにあふ坂の関はゆるさじ」(『枕草子』第131段)
7 昭和50.5 三條南殿跡説明板設置に協力 京都市中京区烏丸通三条南入ル饅頭屋町591(旧〔株〕第一勧業銀行京都支店東壁面) 三條南殿跡
堀河・鳥羽両天皇の乳母藤原光子の邸宅。のちその子・実施が所有したが,鳥羽上皇の院御所となる。上皇の崩後は統子内親王(上西門院)や藤原殖子(七条院)の御所となりた。若き日の源頼朝は,上西門院の蔵人としてこの御所に出仕していた。
8 昭和51.8 平安京朝堂院跡標柱と説明板設置に協力 京都市中京区聚楽廻東町3-3(〔株〕あさひ銀行千本支店東南角) 平安京朝堂院跡
大極殿を正殿とする朝堂院は政治の中枢をになう朝政の場として,平安宮内における最も重要な施設であった。当協会が昭和34年以来実施した数多くの発掘調査によって,大極殿をはじめとする朝堂院の様相がかなり明らかとなった。
9 昭和51.11.29 四條東洞院内裏跡説明板設置に協力 京都市下京区四条高倉入ル立売西町79番地(〔株〕大丸京都店南壁面) 四條東洞院内裏跡
平安時代後期,近衛天皇はここを里内裏とされたが,仁平元年(1151)に炎上したあと参議藤原惟方の所有するところとなり,のち皇太子・守仁親王(のちの二条天皇)の御所となった。
10 昭和53.3 平安京東洞院大路・曇華院跡説明板設置に協力 京都市中京区三条通東洞院東入ル菱屋町30(中京郵便局西壁面) 平安京東洞院大路・曇華院跡
平安時代には,後白河法皇の皇子でのちに平家追討の令旨を下した以仁王の第宅・高倉宮があった。室町時代から明治時代にかけては禅宗の尼寺・曇華院が所在した。当協会の発掘調査に際し,東洞院大路側溝を50メートルにわたり確認。幅は4尺(1.2メートル)で,『延喜式』の記載に一致し,条坊制を考える上での貴重な遺構である。
11 昭和63.3.30 三条西殿,三条大路遺跡説明板設置に協力 京都市中京区三条通烏丸西入ル御倉町85番地1(千吉〔株〕「烏丸ビル」東南角) 三条西殿・三条大路遺跡
平安時代後期,白河法皇の院御所であり,ついで鳥羽上皇,待賢門院の御所として院政時代に政治の中心であった。当協会は昭和44年,56年に発掘調査を実施したが,その結果,平安時代から江戸時代にかけての各時期の三条大路の幅が徐々に狭められて現在に至っていることが判明した。
12 平成1.5.12 紫式部顕彰碑建立に協力 京都市北区紫野西御所田町2番地紫式部墓地 紫式部顕彰碑
荒廃していた紫式部の墓所全域を整備し,顕彰碑を建立したもの(京都洛陽ライオンズクラブ発足30周年記念事業)。
13 平成1.5.18 悲田院跡説明板設置に協力 京都市中京区御池通河原町西南角(〔株〕あおぞら銀行:旧〔株〕日本債券信用銀行、京都支店東南角) 悲田院跡
平安京建都の頃,孤児や身寄りのない人などを収容していた施設で,政府や有力な貴族が維持,経営に当たっていた。はじめ京中の東西に設けられたが,東の悲田院のみ約五百年に亙って役割を果たしてきた。
14 平成1.7.20 堀河天皇里内裏跡顕彰碑建立と説明板設置に協力(現存せず) 京都市中京区堀川通二条城前(京都国際ホテル玄関並びに1階ロビー壁面) 堀河天皇里内裏跡
平安時代,この一帯には,初代関白藤原基経の造営した大邸宅があり,代々摂関家が伝領した。一時,円融天皇,堀河天皇の御所(里内裏)となった。邸宅内の苑池の美しさは多くの詩歌に詠まれている。
15 平成2.7.23 八条院及び八条第跡説明板設置に協力 京都市下京区東塩小路高倉町8-3(JR京都駅八条ロ中央総合案内所前) 八条院・八条第跡
八条院は,平安時代後期の鳥羽法皇の皇女・暲子内親王(八条院)の御所であり,著名な歌人・式子内親王も同居していたことがある。八条院の西隣には左大臣藤原良輔の室町第,その西には平清盛の異母弟・権大納言平頼盛の八条第があった。八条院薨後,この一帯は邦子内親王(安嘉門院)の御領となったが,14世紀の初め東寺に施入された。昭和52年2月に当協会が指導し,新幹線八条ロ2階・西口乗換えコンコースに設置された由緒書を,JR東海が八条ロ中央付近を改装するにあたって,新たに製作され,現在の場所に移設した。
16 平成7.11.6 紫式部・大貳三位歌碑建立に協力 京都市上京区寺町通北之辺町上ル397(廬山寺境内) 紫式部・大貳三位歌碑
紫式部とその娘であり歌人として著名な大貳三位(賢子)の母娘の歌碑を紫式部邸宅跡に建立。
「有馬山ゐなのささはら風ふけばいでそよひとをわすれやはする」(大貳三位)
「めぐりあいてみしやそれともわかぬまに雲がくれにし夜範の月影」(紫式部)
17 平成8.10 土御門烏丸内裏跡(後の水戸藩邸)顕彰碑建立と説明板設置に協力 京都市烏丸通下長者町上ル龍前町605番地(京都ガーデンパレス玄関前庭) 土御門烏丸内裏跡
10世紀頃,村上天皇の皇子・具平親王の邸宅が造営され,12世紀に曾孫・源師時の邸宅「土御門第」となった。のち鳥羽,崇徳,近衛と続く三代24年もの間,天皇の御所となったが,保元の乱(1156)で廃絶した。当協會は昭和38年,53年に一部を発掘調査。
18 平成9.11.3 待賢門院堀河歌碑建立に協力 京都市右京区花園扇野町49(法金剛院庭園) 待賢門院堀河歌碑
鳥羽天皇中宮・待賢門院(璋子)の官女で,『百人一首』に歌を残した堀河の歌の碑を建立した。
「ながからむ心も知らず黒髪のみだれて今朝は物をこそ思へ」
19 平成10.10.2 鎌倉時代の堀河院前説哩板設置に協力(現存せず) 京都市中京区堀川通二条城前(京都国際ホテル1階ロビー壁面) 堀河院前説哩板
鎌倉時代の歌人として著名な藤原良経の邸宅跡であり,道元禅師が少年時代にしぱしば逗留した所である。
20 平成10.8.21 藤原家隆歌碑建立に協力 京都市北区上賀茂本山339(賀茂別雷神社境内) 藤原家隆歌碑
賀茂別雷神社の楢の小川で6月末日に行われる神事・夏越祓を詠んだ歌の碑(揮毫は書家・日比野光鳳氏)が篤志家・近藤清一氏届寄贈で建立された。
「風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける」
21 平成13.11 賀茂斎院跡顕彰碑建立に協力 京都市上京区大宮通西廬山寺通北社横町(七野神社境内) 賀茂斎院跡顕彰碑
賀茂祭り(葵祭)で有名な賀茂の大神に奉仕する斎王(帝内親王)の常の御所跡。嵯峨天皇皇女・有智子内親王を初代とし,後鳥羽天皇皇女・礼子内親王をもって廃絶した。女房たちに才媛が多く輩出し,一大歌壇を形成した。
22 平成16.4.10 検非違使庁跡柱標柱と説明板設置 京都市上京区葭屋町通出水上ル亀屋町333 検非違使庁跡柱標柱
「検非違使」は,弘仁6(815)年頃に令外官として創設された。室町時代にかけて京中の警察,裁判,科刑を担当した職であって,当初は左右両庁に分かれていたが,天暦元(947)年に一つに統合された。この左京一条二坊七町の地は,もとは衛門府のひとつ,左衛門府の一部であったが,分割されて検非違使庁の庁舎の敷地に当てられ,役人も衛門府の官人が兼職した。職掌は,衛門府の字の如く,諸門(宮城門)を守衛することを本務としたが,ほかに,警護,追捕などの職務にも従事し,時代を経るにしたがって,群盗のみならず東国の乱鎮圧のためにもはたらいた。
23 令和3年2月 貞観寺跡 藤原良房発願 京都市伏見区深草西伊達町1-4(京都市立深草中学校) 検非違使庁跡柱標柱
貞観寺は、後に摂政・太政大臣となって、藤原氏全盛時時代の基礎を築いた藤原良房が、外祖父として惟仁親王(後の清和天皇)の誕生にあたり、空海の弟子である眞雅(しんが)と図って建立した。当時は、嘉祥寺の西院であったが貞観4年(862)に貞観寺と改称した。延暦寺や仁和寺など、年号を寺の名前とする特別な寺院の一つであった。寺には宝塔など多数の建物があり、全国に荘園を有していた。
24 令和3年2月 長岡京西方の宮殿跡 京都府向日市上植野町御塔道35-1(美容院ガーデンif) 検非違使庁跡柱標柱
長岡京は延暦3年(784)から延暦13年、桓武天皇によって営まれた都である。本遺構は、朝堂院(ちょうどういん)西方の宮殿の一部(門跡)と推定される。礎石建物であるため、地覆石(じふくいし)(石列)を設置し、基壇を構築した。地覆石が当初の姿で残る貴重な遺構である。施設の名称などは不明だが、曲水の宴を行った嶋院と朝堂院との間に設けられた重要施設と考えられる。平安宮では、この位置に豊楽院を置き、国家の重要儀式や饗宴を行った。
25 令和4年7月 此附近 藤原定家一条京極第跡 京都府京都市上京区染殿町658(京都市立京極小学校) 此附近 藤原定家一条京極第跡
藤原定家(通称「ていか」)(応保二年〔1162〕?仁治二年〔1241〕)は鎌倉時代前期の貴族で歌人。父は歌人の俊成。古稀過ぎて権中納言に任じられ、翌年に出家(法名は明静)した。和歌の世界では「歌聖」と讃えられ、勅撰集の撰者もつとめた。古典の研究者であり、『源氏物語』の校訂に優れた業績を残した。日記『明月記』はこの時代の基本史料で、その自筆本が、孫の為相を始祖とする冷泉家(現在の当主で二十五代目)に伝存する。「一条京極第」は定家の晩年の邸宅で、彼は亡くなるまでここで過ごした。定家は『小倉百人一首』の原型の編纂でも知られるが、その作業の主要な部分はここで行われた可能性が高い。その所在地は、平安京の一条大路と東京極大路の交差点の東北辺り、つまり現在の京極小学校の西半部またはその北側の住宅地と推定される。
26 令和5年8月 堀河院跡 京都府京都市中京区押油小路町238-1(京都市立京都堀川音楽高等学校) 堀河院跡
北を二条大路(二条通)、南を三条坊門小路(御池通)、東を油小路、西を堀川小路(堀川通)によって画された東西約120メートル、南北約250メートルの地が、「左京三条二坊九・十町」である。平安時代前期、ここには藤原氏隆盛の端緒を開いた関白太政大臣藤原基経(もとつね)(836~91)の邸宅である堀河院が所在した。基経の後も、この邸はその子孫の左大臣藤原仲(なか)平(ひら)、関白太政大臣藤原兼通(かねみち)、左大臣藤原顕光(あきみつ)などに受け継がれ、平安京における最高級の邸宅として知られていた。堀河院の東にも閑院、東三条殿という藤原摂関家に関わる大邸宅が存在した。
貞元元年(976)に内裏が炎上した際、円(えん)融(ゆう)天皇はこの堀河院を里(さと)内裏(だいり)とし、それは「今内裏」と呼ばれ、里内裏の初例となった。天皇は上皇となった後も、しばしばここを御所としている。堀河院が最も脚光を浴びたのは、堀河天皇の里内裏の時である。同天皇は嘉承二年(1107)に崩御するまで、生涯の多くをここで過ごした。堀河院は嘉保元年(1094)に焼失したが、長治元年(1104)には美麗に再建されている。堀河院跡の発掘調査では、邸宅の中央部にいくつもの池があり、そこには高さ1メートルの石組の滝が備えられ、数多くの景石が配置された見事な景観を作り上げていたことが判明している。