公益財団法人古代学協会

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季刊「古代文化」

1)「古代文化」の沿革

1.「古代文化」の創刊号が発刊されたのは、1957年(昭和32)8月のことであった。一方で季刊「古代学」を出しながら何故に月刊誌「古代文化」を創刊したのか(第58巻から季刊)。その第一の目的は、「古代学」の普及誌として正会員や会友との親睦を図るとともに、学界消息や調査、発見の情報を掲載することをとおして、古代学協会のサロンとして発足したのであった。

第1、2巻は、毎号6~7頁のパンフレット型式であった。長文の論文の掲載はなかったけれども、一般の読者にも親しめるように平易な内容としたが、古代文化研究に関する情報が溢れており、また著名な研究者たちの「私の履歴書」も連載され、気楽に読める愉しい雑誌であった。
この際、「古代文化」という誌名をつけた事情について一言述べておきたい。

戦前、京都大学を中心にして、三森定男氏を主幹とし、長広敏雄、禰津正志、中村清兄、藤岡謙二郎、角田文衞各氏を同人として運営されていた考古学研究会(京都)は、機関誌として「考古学論叢」を刊行していた。ところが1940年(昭和15)になって用紙の配給がきびしくなり、考古学研究会と東京考古学会(機関誌「考古学」)とは合併を余儀なくされた。そしてこれに中部考古学会を加えた三学会が統合され、日本古代文化学会が発足した(代表者・後藤守一氏)。同会は、三森定男氏を編輯主任とし、1941年2月より月刊誌「古代文化」を出した。

やがて戦争は苛烈となり、刊行にも支障を来たした。当時、葦牙書房を経営していた藤森栄一氏は、侠気を出して「古代文化」の刊行を引き受け、細々と同誌を出していたが、1943年(昭和18)に至って藤森氏と有力な委員の杉原荘介氏とは軍務に召集され、これに加えて用紙の配給困難や印刷所の手不足があり、「古代文化」は、同年10月、第14巻10号を最後として休刊に追い込まれたのであった。

戦後の1951年に発足した古代学協会は、1957年に至って新しい雑誌を出すに当たり、『古代文化』と言う誌名を踏襲しようと希望した。その誌名が適当であるばかりでなく、それは『考古学論叢』の一つの後身であるためであった。そこで当協会は、後藤守一、三森定男、藤森栄一の諸氏に諒解を要請した。三森氏に異議があるはずはなく、晩年の後藤氏もこの件を快諾された。藤森氏は、誌名の使用は諒解するが、その代わり新しい雑誌を毎号寄贈してほしいとのことであったので、約束した通り1973年12月に逝去されるまで藤森氏に対して同誌の寄贈を続けたのであった。

なお、雑誌の欧文名を”Cultura Antiqua”と定めたのは、誌名に現代の欧洲諸国語を用いず、ラテン語(学界の共通語)を採用することは、欧米の学術誌にしばしば見られる慣行であるためである。『古代文化』と言う誌名の由来を知る人が少なくなったので、この機会に書き遺しておく次第である。

2.第 3巻第1号(1959年)から「古代文化」は、内容を論説、学史、史料、時報に分け、20頁に増頁することになった。このように内容を整えつつ、専門雑誌としての地歩を固めて行った。休刊は殆どなかったものの、とかく発行が遅れがちであったが、第3巻第6号より第三種郵便物の認可を得ることができた。

1972年3月、協会の正式な機関誌「古代学」が休刊となった。当然その煽りは『古代文化』に及び、第25巻(1973年)より論文の数もとみに増加したが、この傾向は、第26巻以後益々顕著となった。

つとに寄稿者、特に考古学関係のそれからは、しばしば紙面をB5版とし、横組にしてほしいと言う要望があったが、時の流れに添って第34巻(1982年)からB5版横組とすることが実施された。頁数は54頁となり、大版のため掲載内容は大いに増量した。この改革は、予想以上に好評を博した。それは投稿原稿や会友(購読者)の増大となって現れてきた。長大な論文が紙面を占める傾向が生じ、幾分か『古代学』に類似する様相がみられた。そのため、学史、学者の回想、訃報で内容の硬さを緩和する方法もとられた。

1987年には、外部から委員を招聘し編集委員会の強化を図り、原稿の審査制を確立し、掲載原稿を公正、厳格に取捨する方針を樹てたが、これによって学術誌としての『古代文化』の信用度は増強されたと言える。さらに編集委員会は、年に二、三度の割合で特輯号を企画し、学界の要望に応え、かつ新しい問題提起をなした。

3.50 余年に亘って「古代文化」が歩んで来た路は、決して平坦なものではなく、そこには幾多の紆余曲折もあった。特に2006年度の第58巻の刊行は、前年度来の協会の組織縮小・再編の影響で大きな困難に直面したが、京都大学山中一郎氏が編集長を引き受けられ、氏のご尽力のおかげで、月刊を季刊に改めた上で4冊の刊行を果たすことが出来た。

こうして2007年度には、ともかく再び新編集委員会の陣容をととのえ、誌面の改革を行い、第59巻の刊行に至り得たのは限りない慶びである。これは様々な面で協力を惜しまれなかった多数の方々のご厚情の賜物であって、感謝に堪えないところである。

無論、これをもって満足しているのではなく、今後、種々な改良を加え、内容の充実によって同前の信用度を益々昂めて行きたいと念じている。

かつての雑誌「考古学」は森本六爾氏、「考古学論叢」は三森定男氏を主幹とする学会の機関誌であって、そこには考古学に関する独自な主義、主張があった。それらは官庁の出版物のように無色無味なものではなかった。「古代文化」は、他の研究者に強制することはないが、そこに隠微ながら若干の主張があるためである。それは創刊から今日までを通じて緩かながら貫かれた方針であった。上記によってその一端が知られる通り、「古代文化」は無性格な研究発表誌ではなく、その底流には古代学協会の設立趣旨が潜められているのである。

その第一は、古代文化をあくまで歴史とみる立場である。これは自明のことのようにみえて実は意外に閑却されている。「古代文化」が先史の語を用いないのは、それが古生物学や地史学の雑誌ではないためである。人間が生成された後はすべてが歴史であり、それ以外の何ものでもない。原始(primitiveの訳語としての)と言う語を用いないのは、それが一般概念であって、歴史学の概念ではないからである。

しかしこれは、露な主義主張ではない。「古代文化」はなるべくこの線に添うように編集されて来たが、幸に大方の寄稿者の理解と協力を得て今日まで刊行を続けることが出来たのである。

いま全巻を通観してみると、実に多分野に亘った考説、学史、史料紹介、文献解題、時報等が溢れているのに愕くが、その中には学界に一石を投じたものや、新しい問題を提起したものも少なくない。学史に関する伝記や回想録、訃報なども多いが、これは先人の遺した業績を謙虚に尊重する協会の方針に基づいている。その中には気楽に読め、しかも多くの示唆を受けるものも少なしとしない(以上、詳しくは「古代文化」第40巻総目録を参照)

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