講師紹介と講座内容
講座名:桓武朝の歴史考古学-長岡京編1-
講師名:山中 章(やまなか あきら)(三重大学名誉教授)
※新規講座
◆講師自己紹介 1948年京都市生まれ。1967年京都府立洛東高等学校卒業。1969年広島大学文学部史学科考古学専攻課程入学。1976年京都府向日市役所入所。長岡京を中心に市内の遺跡を発掘調査。1984年向日市文化資料館開館準備、同館学芸員兼務。1997年広島大学にて博士(文学)の学位。1998年三重大学人文学部教授(考古学)。2014年三重大学名誉教授。2018年より古代学協会客員研究員。 〔著書〕・『日本古代都城の研究』(柏書房 375頁 1997年 東京 雄山閣考古学賞受賞)・『長岡京研究序説』(塙書房 458頁 2001年 東京)他。〔編著〕朧谷壽・山中 章編『平安京とその時代』(思文閣出版 473頁 2009年 京都)・広瀬和雄・山中 章・吉川真司編『講座畿内の古代学 第Ⅰ~第Ⅵ巻』(雄山閣 2018~2023年刊行中 東京)他。
◆講座の内容紹介・受講される皆様へ 長岡京は桓武天皇によって延暦三(784)年に造営された都である。「幻の都」などと称され、その実態は不明であったが、1954年から始まる発掘調査と文献史学、歴史地理学からの研究によって具体的な姿が蘇りつつある。奈良時代から平安時代へと時代が大きく変化する契機をなしたのが長岡京である。本講座では、桓武天皇の治世(781~806年)全体を主に考古資料を用いながら、様々な事象の「変化」をキーワードに紹介する。 桓武天皇の出現は、その誕生の瞬間からドラマチックであった。父は後に光仁天皇となる白壁王、母は渡来系の血を引く高野新笠。その年、列島中が天然痘の猛威にさらされ、政権中枢を担っていた藤原四氏が相次いで亡くなる。日本は混乱の時代に突入していた。皇位継承のルールが揺らぎ、有力貴族が反乱を繰り返し、相次いで滅んだ。嵐の中で「腑抜け」を演じ、身を潜めて機会をうかがっていたのが白壁王であった。「桓武朝の歴史考古学」は、周到に準備された「天智皇統の復権」から始める。光仁天皇の遺志を継いだ桓武天皇がまず着手したのが、500年余、政権の中枢部を置いた大和・河内を捨て、山背に新都を定めることであった。都の中心は「長岡」に置かれ、周囲から仰ぎ見られる列島初の地形に建設された。過去の因習は捨て去られ、「新皇帝」の出現が視覚に訴えて演出された。新たな時代の開始を次のような項目立てで語ることにする。 なお、本講座は、古代史に興味があれば誰でも受講できる、わかりやすいが、新鮮な内容で構成されている。
◆講座スケジュール
第1回 10月25日(水)〈桓武朝前史〉天智系皇統への転換~光仁天皇即位・山部親王立太子~
内容:光仁天皇は、即位を準備した藤原百川と共に綿密な計画を練る。その秘策は、急激な変化を望まない伝統的勢力の目をそらすものであった。光仁朝は、聖武天皇の娘・井上内親王を皇后に、その子他部親王を皇太子に据えることから始まる。第1回は、祖父・天智天皇の皇統復活のための秘策の詳細を解き明かす。
第2回 11月22日(水)〈桓武朝創出〉天応・延暦改元~辛酉年辛酉の正月朔日即位~
内容:計画通り、山部親王の立太子に成功すると、皇太子は即位に向けた二の矢を準備する。途絶えていた遣唐使を復活し、新天皇即位の必然性を最新の中国哲学に求める。そのうえで、辛酉の年(781)の正月朔日が辛酉日という稀有な日を選んで、新天皇を出現させる。
第3回 1月24日(水)〈長岡京遷都〉水陸の便有る長岡京へ遷都~理想的な都の建設~
内容:即位と共に新都が準備される。その地は、長く続いた大和ではなく、曾祖父・天智の眠る山背であった。乙訓郡は水陸の交通の便に優れ、中央には宮城を置くに相応しい「長岡」のある地形であった。唐の大明宮のように、人々は天皇を仰ぎ見ることになる。
第4回 2月28日(水)〈長岡宮城建設〉~門闕の設置と天壇郊祀の挙行~
内容:新都の建設は、急がねばならない。平城京の移転には多くの抵抗が予想された。選んだ手段が、副都難波宮の資材を利用することであった。新都にふさわしい装置・門闕という前例のない施設を丘の前面に設けることは怠らなかった。さらに、交野の地で天壇郊祀を実施して、新王朝の正当性を内外に示す。
第5回 3月27日(水)〈長岡宮城、左右京域の整備〉~二官八省・嶋院・西宮と左右京~
内容:新京のもう一つの特徴は、長安のように全国、全世界からたくさんの人々の集う〈京〉を建設することであった。皇族・貴族だけの都ではない、諸階層の集住する〈都市〉の設置こそ、新王権の目指すものであった。その都市設計が発掘調査によって見事に再現されている。