公益財団法人古代学協会

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◇ 経  歴

氏  名:久米 舞子(くめ まいこ)
生  年:1982年(東京都生)大阪府在住
学  歴:2010年 慶應義塾大学大学院 文学研究科
         後期博士課程 単位取得退学 修士(史学)
現  職:国際日本文化研究センター プロジェクト研究員


◇ 受賞論文

「平安京『西京』の形成」
(『古代文化』第64巻第3号、2012年12月)


◇ 受賞理由

久米舞子氏は、祭礼等を通して地域共同体が形成される過程を分析することで、政治的な都城として建設された平安京が中世京都に変貌する過程を追及している。受賞対象となったこの論文もその一環と言ってよく、中世京都の性格を考える上でも、また現代都市京都と地域住民の関係を考える点でも、意義のある仕事である。
平安京右京は従来、『池亭記』の記述により10世紀後半には全体が荒廃したと考えられてきた。こうしたイメージは、考古学調査により徐々に訂正されてきているが、新たな知見を踏まえた文献史学による研究(右京像)は、まだほとんどないと言ってよい。
この論文は従来実態があいまいなまま右京と同一視され、イメージが先行していた「西京」に焦点を当て、その実態と変貌を文献史学の立場から明らかにした点に意義がある。またここに提示された「西京」の変貌も、平安京が中世都市京都に発展・変化していく過程の実例として、以後の研究の重要な要になると考える。
この論文の要旨を、簡単に紹介したい。西京は、当初平安京右京を指す語として使用された。しかし右京が衰退するとともに西京のイメージも変化し、行政区分としての右京とはニュアンスが異なる独自の意味を持つようになる。久米氏は、従来漠然と右京に重ねて考えられてきた「西京」の地理的範囲を確定し、「右京」とは異なる、より狭い地域を指して使われていることを明らかにした。それによると、「西京」は主に平安宮大内裏西の一帯、右京一条~二条の地域を指す、限定的な用語である。またその上でこの地がそれ自体独自の性格を持つ地域であったことを、史料に見える居住者の分析から明らかにしている。この地の住人は、下級官人層を中心に女性・僧侶など官司や権門と関係する雑多な人々から成り、上級貴族層が集住する内裏周辺・左京北部とははっきりした階層差が存在した。その一方で両者の間には支配従属関係を始めとする緊密な交流が存在し、孤立した地域ではなかったとしている。ついで論文後半では、こうした雑多な居住者が地域住民としてまとまり都市共同体として成熟していく過程を、一時的なブームに終った11世紀の「花園今宮」と、神人に組織された地域住民を核に共同体が形成された中世「北野」という、時期を異にする二つの御霊神祭祀との関わりを通して考察し、中世都市京都の成立を展望している。
この論文は、文献史学の側から右京の変貌を考える第1歩である。但しここで明らかになったのは、あくまでも右京北部の「西京」の姿であり「右京」全体ではない。考古学調査によれば、10世紀以降右京域の多くが耕地化した反面、その南部では平安時代末期に再開発された地域も存在する。こうした右京の変化は京全体の変化と連動していると思われる。また平安時代の雑多な居住者のその後の行方も問題となる。これら点の検討が、「平安京」から「京都」への変貌を考える今後の課題となるだろう。


◇ 主な著作・論文等

・「平安京羅城門の記憶」(『史学』76巻2・3号、2007年12月)
・「松尾の祭りと西七条の共同性」(『日本歴史』742号、2010年3月)
・「稲荷祭と平安京七条の都市民」(『史学』82巻1・2号、2013年4月)